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●画家名:堅山南風
※プロフィールは下記をご覧下さい
●作品名:肥後椿
●絵のサイズ:W39,5×H50cm
●額装サイズ:W63,5×H75cm
●版画の技法:リトグラフ
※詳細
●サイン:刷り込みサインと落款
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刷り込みサインと落款
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堅山南風 プロフィール
1887年 | 熊本県熊本市に生まれる。 |
1906年 | 地元の杉谷雪樵系の画家・福島峰雲に師事する。 |
1909年 | 同郷の先輩、山中神風に連れられて上京する。
車中で『十八史略・尭舜篇』の「南風之詩」より「南風」の号を自ら選ぶ。 神風の紹介で、熊本県の山鹿出身の歴史画家高橋広湖の門に入る。 日本画の絵画「燈火」を第三回文展に初出品するが落選する。 |
1910年 | 第11回巽画会にに日本画の絵画「往来」を出品し三等褒賞を受ける。
第4回文展に源義家の故事を題材にした日本画の絵画「義家観飛雁行」(現在は「飛雁行を見る」と改題)を出品するが落選する。 |
1911年 | 生活の窮状を見かねた師広湖が、『報知新聞』連載小説「徳川栄華物語」の挿絵を代筆させ、月30円の手当てを与える。
巽画会に甲冑棚を題材にした日本画の絵画「弓矢神」を出品して三等銅牌を受賞する。 日本画の絵画「七媛」を第5回文展に出品したが落選する。 |
1912年 | 師・高橋広湖が急逝する。
巽画会出品の日本画の絵画「路辺」が一等褒状を受賞する。 |
1913年 | スランプに陥り、巽画会に出品の日本画の絵画「遅日」が二等褒賞になったほか、勧業展、日本画会展と落選する。
日本画の絵画「霜月頃」が第7回文展に初入選、最高の二等賞となり、横山大観の激賞を受ける。 「霜月頃」は旧藩主細川護立侯に買い上げられ、以後、細川侯の庇護を受ける。 |
1914年 | 横山大観に師事する。
日本美術院が再興されると文展出品をやめ、日本画の絵画「日和つづき」を第1回院展に出品し入選する。 |
1915年 | 第2回院展に労働者の群像を描いた日本画の絵画「作業」を出品し入選したが、横山大観から「題材の品が悪い」と叱られる。 |
1916年 | 沈滞ぎみの画境を打開するため、荒井寛方のインド旅行に便乗して海路カルカッタに向かう。
約2カ月間、市内や郊外に出かけ、風景、人物のほか、博物館の仏像を写生する。 |
1917年 | ブッタガヤ、デリーを旅し、高原の都市シムラ、ダージリンでヒマラヤ連峯やその周辺の写生をする。
帰途ボンベイに立ち寄り、エレファンタ石窟の仏教彫刻に感銘、15日間写生に費やす。 第4回院展に、インドでの印象を八曲屏風に描いた日本画の絵画「熱国の夕べ」を出品したが、赤や緑の強い色彩を使ったため、「南風、色盲となる」と酷評される。 |
1921年 | 雪中の美人を描いた六曲一双の屏風「雪の朝」を制作する。
織田観潮、鴨下晃湖らと絵画研究会翡翠会を結成する。 |
1922年 | 第9回院展に3年振りに出品した2曲1双の「桃と柘榴」が横山大観に好評される。 |
1924年 | 日本美術院同人に推挙される。 |
1926年 | 東京府美術院評議員に任命される。 |
1929年 | 横山大観の推薦で、新築した日光東照宮朝陽閣の障壁画揮毫のため、中村岳陵、荒井寛方と日光へ行き、12月30日まで滞在して制作する。 |
1931年 | 『美術新論』10月号に「苦難時代を語る」を執筆する。 |
1935年 | 東京府美術館10周年記念現代総合美術展に日本画の絵画「鱗光閃々」が選ばれ、展示される。 |
1936年 | 新帝展に日本画の絵画「ぼら網」を出品し李王家の買い上げとなる。 |
1937年 | 第24回院展に日本画の絵画「朔風」出品し、横山大観の激賞を受ける。 |
1938年 | 第2回文展の審査員となる。 |
1940年 | 前年度院展出品作の日本画の絵画「千里壮心」が福岡日々新聞社が紀元2600年を記念して創設した第1回西日本文化賞に選ばれる。
『現代名家自選素描第三輯堅山南風魚類篇』(芸艸堂)を刊行する。 はじめての日本画の絵画の個展を東京の佐藤梅軒画廊で開催する。 『堅山南風』(美術春秋社)が刊行される。 |
1941年 | 国際文化振興会主催の仏印巡回日本画展内示会(日本橋三越)に日本画の絵画「泉水」が展示される。 |
1944年 | 千葉県安房郡清澄寺の杉戸十面に揮毫する。 |
1946年 | 第2回日展に日本画の絵画「潮」を出品する。
日展の審査員となる。 |
1951年 | 外務省より外国公館装飾用の依頼を受け、日本画の絵画「曙色」を制作する。 |
1952年 | 日本画の絵画「白雨」が文部省買い上げとなる。
第8回日展に日本画の絵画「新涼」を出品する。 |
1956年 | 熊本県文化功労者に推挙される。 |
1958年 | 東京・深川富岡八幡宮に「鯉」の大額を奉納する。
師・横山大観没。 伊東深水とともに日本芸術院会員に推挙される。] 日本美術院が財団法人組織となり監事に就任、同年理事となる。 外務省・東京国立近代美術館主催のオーストラリア・ニュージーランド巡回の「日本現代美術展」に日本画の絵画「白雨」が選ばれる。 美術雑誌『造形』10月号に堅山南風特集が掲載される。 |
1962年 | アメリカの週刊誌『タイム』の依嘱により制作した「松下幸之助像」が同誌2月23日号の表紙となる。
この年、邦画会より『巨匠画家シリーズ第1輯堅山南風画集』が発刊される。 第47回院展に日本画の絵画「知秋」を出品する。 |
1963年 | 文化功労者に推挙される。 |
1964年 | 勲三等旭日中綬章を受ける。
先年焼失した日光輪王寺本地堂の天井画「鳴龍」の復元依頼を受け、7月27日完成する。 |
1966年 | 東京浅草待乳山聖天本龍院から依嘱の本堂天井画、内陣の大杉戸「朝暾」、「夕月」の2面が完成する。
難波専太郎著『堅山南風』が美術探求社より刊行される。 |
1967年 | 中禅寺(立木観音)五大堂外陣の大天井画「瑞龍」が完成する。
熊本市民開館緞帳の下絵を制作する。 |
1968年 | 文化勲章を授与される。 |
1969年 | 『東京新聞』夕刊に「横山大観先生と私」を執筆する。
第54回院展に日本画の絵画「新涼の客」(モデル同郷の俳人中村汀女)を出品する。 熊本名誉市民となる。 奥日光、金精神社本殿の天井画「龍」を制作する。 日光中禅寺五大堂の杉戸絵「牡丹」「唐獅子」四面を完成する。 |
1971年 | 菊地芳一郎著『堅山南風』(時の美術社)が出版される。 |
1974年 | 佐賀県基山町中山真語正宗滝光徳寺より依頼の「弘法大師像」「教祖像」の2点が完成する。
第59回院展に日本画の絵画「春の雪」を出品する。 |
1977年 | 川崎市川崎大師平間寺より依嘱されていた「龍」が完成する。
村瀬雅夫著『庶民の画家 南風』が南風記念館から発行される。 |
1978年 | 『読売新聞』紙上に自伝抄「思い出のままに」を連載する。
日本放送出版協会より『現代日本画家素描集4 堅山南風インド・タヒチの旅から』が出版される。 日本橋高島屋で素描集出版記念堅山南風素描展が開催され、インド・タヒチのスケッチ60数点が展示される。 神奈川葉山町の横浜孝道教団本仏殿の大壁画「大雪山施身聞法」、「永劫の光」、「聖晨」、「聖苑追慕」、「歓喜のとき」、天井画「瑞気一天」の6点が完成する。 日本放送出版協会より『堅山南風素描「花」』を出版する。 |
1979年 | 第34回春の院展に日本画の絵画「花瓶と花」を出品する。
朝日新聞社より『堅山南風画集』が刊行される。 |
1980年 | 逝去 |
★コメント
堅山南風さんのリトグラフの版画「肥後椿」は、堅山南風さんらしい品格と優しさ、親しみやすさを感じる素晴らしい和の花の絵画です。
このリトグラフの版画は、堅山南風さんの描いた日本画の絵画を原画として制作された和の花の絵画です。
この花の絵画のタイトルになっている肥後椿は、200年の伝統を誇る熊本を代表する花です。
花の時期は1月〜4月で「一重平咲き梅芯」の格調高い花です。
特に花芯(雄しべや雌しべ)が雄渾華麗な花で、椿の王様とも言われ、熊本市の「市の花」になっています。
熊本が生んだ日本画の巨匠・堅山南風さんが描いた肥後椿は、まさに見とれてしまうような素晴らしい和の花の絵画だと思います。
堅山南風さんの花の絵画「肥後椿」はご購入済みとなりました。
堅山南風さんの花の絵画をご購入いただき誠にありがとうございました。