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●画家名:マリー・ローランサン
※プロフィールは下記をご覧下さい
●作品名:ペキノア
●絵のサイズ:W39×H49cm
●額装サイズ:W57×H75cm
●版画の技法:銅版画(エッチング)
※詳細
●サイン:刷り師鉛筆サイン
ご購入済
額装状況
刷り師鉛筆サイン
額のアップ
限定番号
マリー・ローランサン プロフィール
1883年 | パリに私生児として生まれる。 |
ラマルティーヌ高校に学び、画家を志しアカデミー・アンベールで絵を勉強する。 | |
ここでジョルジュ・ブラックと知り合い、キュビズムの影響を受けた。 | |
1907年 | サロン・ド・アンデパンダンに油絵の絵画を初出品する。 |
このころ、ブラックを介してモンマルトルにあったバトー・ラヴォワール(洗濯船)というアトリエで、パブロ・ピカソや詩人で美術評論家のギヨーム・アポリネールと知り合った。 | |
アポリネールと出会った時、彼は27歳、マリー・ローランサンは22歳。 | |
二人は恋に落ちた。 | |
だが1911年にアポリネールがモナ・リザ盗難事件の容疑者として警察に拘留された頃には、マリー・ローランサンのアポリネールへの恋愛感情も冷めてしまった。 | |
その後もアポリネールはマリー・ローランサンを忘れられず、その想いを歌った詩が彼の代表作『ミラボー橋』であるという。 | |
1912年 | 最初の油絵の絵画の個展が評判となりその後、次第にキュビスムから脱する。 |
マリー・ローランサンが30歳になる頃にはエコール・ド・パリの新進画家として知られるようになった。 | |
1914年 | 31歳でドイツ人男爵、オットー・フォン・ベッチェンと結婚する。 |
これによりドイツ国籍となったため、同年に第一次世界大戦が始まると、はじめマドリッド、次にバルセロナへの亡命生活を余儀なくされた。 | |
1920年 | 離婚して単身パリに戻る。 |
パリに戻ったマリー・ローランサンは、パステルカラーの簡潔で華やかな、夢見るような少女像という独特の画風を作り上げ、フランス史上狂乱の時代、1920年代にあって、時代を体現し売れっ子画家となった。 | |
パリの上流婦人の間ではマリー・ローランサンに肖像画を注文することが流行となったという。 | |
また舞台装置や舞台衣装のデザインでも成功した。 | |
関わったものとしては、フランシス・プーランクのバレエ、『牝鹿』や、オペラ=コミック座の『娘たちは何を夢みる』、コメディ・フランセーズ、シャンゼリゼ劇場で上演されたローランド・プティのバレエなどが知られている。 | |
第二次世界大戦の際はフランスを占領したドイツ軍によって自宅を接収されるといった苦労もありながらも、創作活動を続けた。 | |
1954年 | シュザンヌ・モローを正式に養女とする。 |
1956年 | パリにて死去する。 |
★コメント
マリー・ローランサンの銅版画「ペキノア」は、マリー・ローランサンが1938年に描いた油絵の絵画を元にしてマリー・ローランサンの死後、製作された複製版画(エスタンプ)です。
そのため版画作品としての価値的なものは一切ありません。
マリー・ローランサンも生前には多くのリトグラフや銅版画を制作していますが、意外と色が暗かったり、作品のサイズが小さい物がほとんどです。
そのためマリー・ローランサンの油絵の絵画のイメージをお持ちのお客様には不評だったりします。
オリジナルとしての価値はありませんが、インテリアとしてマリー・ローランサンの作品を楽しみたい方には、むしろ複製版画をお奨めします。
マリー・ローランサンの銅版画「ペキノア」はご購入済みとなりました
マリー・ローランサンの銅版画をご購入いただき誠にありがとうございました